| 阪神大震災に寄せて | ||
miyaは阪神大震災で被災したうちの一人です。「1月17日」あの日から6年の月日が経ちました。阪神大震災はmiyaがOTになろうと思った一つのきっかけになりました。大げさなようですがあの5分にも満たない時間が私の人生を変えたと言っても過言ではありません。 私もあの日を振り返って、当時感じた事。その時学んだ事。思い知った事。思い付くままに書いてみました。あくまでも個人的意見、感じた事ですので、乱文乱筆はご容赦ください。ご批判などもあるかと思いますが、感想もかねてお手紙などいただけるとうれしいです。
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| 震災で感じた事 (1995/03作成) | ||
阪神大震災について原稿を書いて欲しいといわれたとき、私は正直言って腹が立った。確かに阪神大震災はこの何ヶ月かの間にあった大きな事件の一つではあるが、震災に遭ったものの一人としては過去の出来事としてしまうにはあまりにも生々しく、かつ、傷痕が残っているからだ。しかし震災にあった事を書く事で今でも不自由な生活を余儀なくされている方もいまだいるという事を知っていただくためにもペンを執ってみた。 私が住んでいたのは神戸市○○区にある私の祖母の家であるが、祖母が亡くなって家が空き家になってしまったので、留守番代わりに私が移り住んでもう5年以上になる。実家も神戸市○○区にあり、私が中学在学中に父が亡くなっため、そこには母が独りで住んでいた。 1月17日午前5時46分。私は直前に目が覚め起きていたが、それは突然起こった。私自身は何がまだ起きたのかまだ夢の続きのように感じながら、ただ座っている事もできず家の中にあった家具類が倒れていくのを感じていた。 地震が終わった後、聞こえてきたのは電線が切れてショートしたパチパチという音と一瞬の静寂。電気が止まったため辺りは真っ暗であったがその一瞬の後、悲鳴や叫び声が響き渡り、辺りにガスの匂いが漂ってきた。私自身もその時初めて何が起こったのかやっと認識し、まず「逃げなければ」という本能のようなものに突き動かされてドアに向かった。しかし家具が倒れていたためドアにたどり着くまでに何度もつまづきパジャマ姿で裸足であったため、割れたガラスで足を切ったりもした。やっとたどり着いたが今度はドアが開かず、その時私ははじめて死と恐怖というものに直面したような気がする。その時は恥しいなどと言っていられず大声で「助けて!」と叫んでいたからだ。 たまたまその時外に出ていた近所の人たちが何人かでドアを外してくれたので脱出する事ができたがそうでなければ外に出る事はできなかったと思う。 しかし外に出たもののガスの臭いがひどくその場にいる事に危険を感じたのでとりあえず、何かあったときの避難所として指定してあった近くの小学校に向かい場所を確保した。しかし、独りで住んでいる母の事が心配で電話をしたものの電話は通じず、明るくなってから家に帰りパジャマを普段着に着替えた後、実家に向かった。 私の住んでいるところと実家とは徒歩で約30分ほどであるが、実家に向かう途中でも火事がひどいせいで通れなかったり、崩れた家のせいでとおれない道があったりで、私は心配のあまり半泣きの状態のまま必死で歩いていたのを覚えている。実家にたどり着いたとき、家が無事だった事を確認したものの母の行方が分からず、近所の人たちに合うたびに母の事を聞いたが、たまたま母が近くの避難所に非難している事をご存知の方がいらっしゃったので、探し当てる事ができた。そこで母の無事な顔を見た途端、私は不覚にも号泣してしまった。実際無事であると心の中で信じていたものの顔を見るまでは不安でいっぱいで、顔を見て一挙に緊張が解けたからだ。 また、母のいた避難所で私は4日ほど生活したが、○○区という火事のひどい地区であったために、着のみ着のままの人も多く、私などは家から物を持ち出せるだけマシであった。 実際に友人達で亡くなった方はいなかったが、友人の両親であるとか、顔見知り程度の方達で圧死・焼死した人は数多く存在し、私も火事跡から骨を拾っている人たちの様子を目の当たりに見てきた。その様子を目の当たりにする事の衝撃は言葉では言い表せないものがあり、これは実際に経験してみないと分からないと思う。 しかし、阪神大震災という大災害を経験して良かったなと思える事は、電気・ガス・水道の大切さを改めて認識できた事と、いい友人に恵まれた事を感謝したい。私が困っていたときに友人達がいかに力になってくれたか。。。この場を借りてお礼を言います。どうもありがとう!! 最後になるが地震にあった人たちにとって地震はまだ終わっていないと思う。私も結局実家は半壊、祖母の家は全壊となっている。今は私も会社の寮で生活をさせていただいているが仕事の都合上家に帰る事がままならず、今も実家に住んでいる母は家の中を土足で歩いている状態であり家を片づけていく必要がある。ライフライン自体は回復したものの、家の水道管が壊れてしまっているためいまだ水は出ず、生活をしていくためには家の補修、および、建て直しをしていかねばならない。このような状態の人はおそらく私だけではないだろうし、もっとひどい人達もいるだろう。被災者にとっての戦いはこれからの人も多い。そんな人たちを励ますと共にお互い頑張りましょう!!といいたい。 |
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| 震災で認識できた人の強さ (2000/01作成) | ||
私は、阪神大震災を経験して、人間は立ち直る事ができるという事を知った。心の傷はなかなか消えない。体の傷もなかなか消えない。痛みは少しも和らがない、でも人間というものは忘れるという機能を兼ね備えている。 当時の私はまるで悲劇のヒロインのように自分で自分を哀れんでいた。「なぜ私だけがこんな目に合わなければいけないのか。」そんな思いでいっぱいだった。実際当時は眠る事もできず。悪夢にうなされつづけた事もある。 今でも思い出すたびに心の痛みは再現する。でも思い出す間隔はだんだん広くなり、今では思い出そうと意識するほどになった。 でも人と助け合った気持ち、その時感じた感謝の気持ちは私にとても多くの事をもたらしてくれた。 助けてくれた友人やボランティアの人たちは数多く、 私が会社を辞めて学校に行く事を決めた後も、友人達は陰になり日向になり応援してくれている。 ただ、大震災は良い人間関係だけをもたらしてくれたわけではない。その時の私は自分の事で精一杯で人を思いやる余裕がまるでなく、そのために離れていった人もいる。今となってはとその時の自分を思い出すたびに反省と後悔の念でいっぱいになる。 また、家を建て直すときに女性だけであるため(還暦を超えた母と、まだまだ若輩者の私)、銀行の信用を勝ち取るためにとても苦労したし(そのために私はすべての貯金をはたかなくてはいけなかった)、家を建て直すために、ご近所の人たちと一悶着無かったとは言えない。それでも何とか家を建て直すことにこぎつけられた。 でも、それができたのはむしろラッキーだったのだ。震災後まだ神戸に戻ってこれない人達は大勢いらっしゃるし、家を建て直そうと思ってもそれだけの資金が無い方も大勢いらっしゃる。 私はできれば今度は助ける立場の人になりたい、私が困ったときに助けてくれた人たちに恩返しをするのはそれしかない、と考えるようになった。私はたまたま地震に遭ったとき若かった。。。そのため、立ち直るのも早かったように思う。それならばこれからは人が困った事になったときそれを何とか改善するお手伝いができるようになればそう考えるようになった。 今はまだ人を助けるどころか、助けていただいているのが現状だが、作業療法士への道に進んだ事を今も後悔していない。実習に行ってどれほどの事ができるのか。私にも分からない。でもそれでも私ができる事を精一杯やってきて、なおかつイロイロな事を学んできたいと思う。 |
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